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院長コラム

Vol.20 産科手術の始まり −帝王切開と子宮外妊娠破裂−

 ローマ皇帝ユリウス・カエサル(シーザー)が帝王切開で生まれたというのは俗説で、「子宮を切開する」という意味のラテン語が、ドイツ語に翻訳さ、"Kaisershinitt"になり、それが19世紀に日本に紹介され、「帝王切開」という訳語が作られます。もともと"Kaiser"は分離するということで、ユリウス・カエサルも「ユリウス家の分家」という意味でした。それが偉大な皇帝となったため、「カエサル=皇帝」となり、ドイツ語から日本語に翻訳する際に間違って「帝王切開」とされたのです。本来は、「切開分娩」と訳せばよかったのです。

 死亡した母体から胎児を取り出す習慣は古くからあり、紀元前700年頃のローマでは皇帝法により、妊婦が死亡した場合には腹部を切開して子供を取り出すと定めています。中世ヨーロッパでも、教会は死亡した妊婦の帝王切開を推奨し、その際には胎児が呼吸できるように母親の口を開けておくよう勧めています。ルネサンスになり、生きた母体への手術が試みられますが、切開した子宮は縫合してはならないと信じられていたため、ほとんど出血死しています。

 帝王切開が広まるのは、1876年にイタリアの産科医エドアルド・ポロの功績です。25歳の骨盤の狭い女性が予定日を4週間過ぎても分娩できないために手術し、子宮切開後の出血がコントロールできないために、子宮を切除することで止血に成功します。さらに1881年には切開した子宮を切除せずに縫合する技術がドイツのフェルディナンド・ケーラーにより考案され、無菌法の普及もあって20世紀初頭には死亡率は2〜3%になります。

 子宮外妊娠の破裂も致命的でしたが、19世紀の後半に出血を外科的に止めることが考えられ、英国人医師ロバート・テイトにより実行されます。1881年の夏、子宮外妊娠が破裂した女性を、手術に踏み切れず死に至らしめた彼は、死後の解剖で、破裂した卵管を切除すると救命できると確信します。1883年、最初の手術には失敗しますが、3月に成功、その後手術を重ね、1888年には39例の手術で37人を救命したことを報告します。テイトは、卵巣腫瘍や胆嚢結石や虫垂炎の治療にも大きな功績を残し、術野を洗浄し手術器具を煮沸消毒する無菌法も導入しました。太って身長が低いその容姿はバッカスにたとえられましたが、その頭脳はゼウスのようで「近代外科の父」と呼ばれています。

院長 笹壁弘嗣

新庄朝日 第559号 平成18年10月15日 掲載

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