「最新の医療」というと夢のようなすばらしいものと感じる方が多いのではないでしょうか。ところが、弱肉強食の世界である米国では、「貧しい人は最新の医療を、金持ちは最善の医療を受ける」と言われているそうです。これは、「最新の医療はその効果や安全性がまだ確立されていないので、そのための実験台になってくれる人が必要であり、貧しい人はそれに無料で参加する、一方、裕福な人はお金をかけて安全性の確立した医療を快適な環境で受ける」という意味です。
かつて「最新の医療」として注目を集め期待されながら、今では全く顧みられなくなってしまったものは数多くあります。また、新しい医療には未知のトラブルがつきまとい、症例を重ねることによって少しずつ安全性が高まることはしばしばあります。例えば、胆嚢を摘出する手術は、腹腔鏡による方法が15年以上前からわが国でも始まり、数多くの症例が蓄積され、いろいろな合併症を経験することで、安全なやり方が徐々に確立され、今では広く普及しています。この過程で命を落とした方もいます。医学の進歩はそのような尊い犠牲の上にしか成り立たないのは、100年前と本質的には変わっていないのです。
一方、「最善の医療」にも問題があります。たとえ同じ病気であっても、病気の状態によって治療方針は異なります。例えば胃癌であっても、内視鏡で取れることもあれば、手術でないと取れないこともあれば、手術することが無意味なことさえあります。また、同じ病気で同じ進行具合であっても、患者さんの年齢や健康状態によって治療方針は左右されます。働き盛りの40歳と、寝たきりで意識のない90歳では、治療が異なることの方が多いでしょう。
さらに、患者さんがどのような人生観を持っているかによっても治療は変わってきます。日頃から健康や老化や病気や死について考えていない方は、いざ病気になったときに、どうしてよいかわからなくなることが多いように思います。
もう一つ、日本の医療保険制度の制約を受けるという問題もあります。例えば私が病気になりその最善の治療を受けるために10億円の医療費が必要だとします。その治療に医療保険が適応されていないとすると、自費でということになりますが、私にはその財力はありません。もし医療保険が適応されていたとしても、私にはそれを受ける値打ちがあるとは思えません。となると、次善の医療を選択するしかありません。以上のようなことはかなり極端な例ですが、日本で当然のように行われている血液透析が、アフリカでは受けられないということは普通にあるのです。
このように最善の医療というものも問題を抱えており、簡単に他人から選んでもらえるのものではないのです。
院長 笹壁弘嗣
新庄朝日 第575号 平成19年6月15日 掲載
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