先日、父が亡くなりました、92歳、老衰です。亡くなる10日前に呼吸が止まりそうになり、水分は少し摂れるものの、食事はできなくなりました。このようなときの対処は、点滴をするか、胃にチューブを入れて栄養剤を注入するかが一般的ですが、以前から終末期は自然な形でと決めていたので、どちらもせず口から水だけ与えることにしました。水を含ませたガーゼを赤ん坊のように吸う姿はいとおしく、吸引力で父とつながっているということが実感できました。このような状態になると余命は1〜2週間と言われていますが、そのとおりでした。枯れるような穏やかな最期でした。
石飛幸三氏によると、八丈島には高齢者が衰弱して食べられなくなると無理に食事をさせずに、少量の水分補給だけにとどめるという習慣があるそうです。そうすることで、肺炎を予防し安らかな終末期を過ごせるということを経験的に知っているのです。また、米国の医学雑誌には、ホスピスで働くナースに、自らの意志で飲食を止めた人の終末期を評価させたところ、極めて高い得点だったという報告もあります。
そもそも高齢者は自分が食べられない状態になったときにチューブ栄養を望むのでしょうか。大井玄氏によると、将来胃瘻(内視鏡を使って直接お腹の皮膚から胃に太いチューブを入れる)を希望すると答えた高齢者は数%に過ぎないということです。しかし現実は、食べられなくなったら即胃瘻ということが少なくありません。それにより生命を維持できる期間が延長することは多いでしょう。
「少しでも長く生かしてやりたいと思うのが肉親の情です」といいますが、肺炎を繰り返し無理に生かされる姿を見ると、私は痛々しく感じます。「点滴もチューブ栄養もしないということは餓死させろということですか」と言われたこともあります。餓死とは、飲食したい人で、飲食できる人に、飲食を絶って死に至らしめることです。私の父は食べたいという欲求がなくなっていることがよくわかりました。衰弱してゆく人とじっくりつきあってみると分かるかもしれません。
いずれにせよ高齢者の皆さん、現代の日本に生きるということは現代の日本で死ぬことということです。将来、食べられなくなったときに管を入れるかどうかは元気なうちにご家族に意思表示しておくことを強くお勧めします。その時には周りがうまくやってくれるというのはあまりに甘い考えです。
院長 笹壁弘嗣
新庄朝日 第665号 平成23年3月15日(火) 掲載
・過去に新庄朝日等に掲載されたコラムがご覧いただけます。