先ごろ厚労省がまとめた「がん対策の基本計画」に、「がんになっても安心して暮らせる社会」という項目が追加されました。 がんになっても安心して暮らせる社会とはどういうものなのでしょう。
日本では年間110万人が死に、死因の1/3が癌です。その理由は、日本国内では70年近く戦争がなく、食料が充足し、医療が発達したからです。太平洋戦争では300万人以上の日本人が命を落としました。戦争直後は肺炎や結核が死因のトップでしたが、食糧事情が好転するにつれ劇的に減りました。その後しばらくは脳卒中が1位でしたが、生活習慣の変化によりその座を癌に明け渡しました。つまり、先進国では癌が死因の一位になることは必然なのです。現在でも戦禍を被っている貧しい国では、癌が死因の上位ではありません。
癌を放置してよいと言いたいのではありませんが、そもそも「安心」とは、個人の心の問題であって、システムで得られるものではないのです。かつて人は、自然災害・猛獣・隣国の侵略などあらゆる危険にさらされていました。それに対抗するために―ちょうど黒澤明監督の名作「七人の侍」の村人たちのように―リスクを引き受け工夫を凝らし、やっとのことでとりあえずの安心を手に入れたのです。そのために作った共同体の最大のものが国家です。ところが、脅威が減るにつれて、かつて内向きであったささやかな安心は、外に向かって限りなく肥大化し、国家や企業に対する要求となりました。それと同時に、政治家は票を求めて、企業は利益を求めて、お気軽に安心安全の実現を口にするようになりました。その結果、老後の安心も個人の努力なしに実現されるのが当たり前で、不安は自分以外の他者に何らかの問題があるはずと考えるようになったのです。「安心」を求める人ほど不安のスパイラルに陥りやすく、どんなにがん対策が進んでも「安心」が得られることはありません。
国家の中枢にいる人は、日本列島の中で1億2千万人以上の国民が、餓死せず凍死せず戦死せず、ほどほどの健康を維持できるかを必死で考えなければなりません。その際最も重要なことは、「安心安全」の幻想を振りまくことではなく、国民から信頼されることです。その意味で今回の原発事故後の対応は致命的でした。一方、私たちに必要なことは、分相応の幸せを大事にしつつ、不幸をも受け入れる覚悟を持つことではないでしょうか。
院長 笹壁弘嗣
新庄朝日 第687号 平成24年2月15日(水) 掲載
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