先月号で胃瘻造設術が減っていることに触れましたが、逆に経鼻胃管による経管栄養は増加しています。長期にわたる経管栄養には、苦痛が少なく管理も容易な胃瘻が適していますが、胃瘻で経管栄養を受けるべき患者さんに経鼻胃管が入れられている人が増えたと考えられます。実際に「経管栄養はしてほしいが胃瘻は嫌です」という家族が増えているように感じます。回復の見込みのない高齢者に問われるべきは、胃瘻か経鼻胃管ではなく、強制的な栄養補給を行うか否かなのです。胃瘻を敵視するあまり、リハビリで口から食べられるようになる人が、暫定的な栄養確保のために経鼻胃管を入れられて抑制されている姿は正視に耐えません。
諸外国の胃瘻事情は様々で、人口あたりの件数が日本の1/10と言われた英国の他にも、スウェーデン・オランダ・フランスなどは極端に少ないようです。一方で、日本より人口の少ないドイツでは、10年前には2倍以上の胃瘻造設術が行われていました。米国は州によって事情が異なり、さっさと胃瘻を作って施設に入れるところも少なくないようです。死生観・家族観・社会的背景の差と言えるでしょう。
「栄養補給をしないのは虐待」いう考えが強い我が国に対して、口から食べることも含めて、「食事をしたくない人に強制的に栄養を入れることこそ虐待」という考え方もあります。食べずに死んでいくことすべてを餓死と捉えるか、食べる意思と能力がある人に限定して餓死と捉えるかの違いと言えます。また、家族の意志が本人の意思よりも尊重されやすいのも我が国の特徴です。愛する親にはずっと生きていてほしいと思うことを、愛情と捉えるか自己満足と捉えるかの違いとも言えます。我が国の社会的背景としては、可能な治療を行わないことや治療を中止することに関する法整備が不十分であるため、医療者が刑事犯罪人扱いされることがあります。また、親の年金を当てにして延命を選択する家族も少数ながらいます。
認知症を含めて回復の見込みのない病気で口から食べなくなったら、私は胃瘻であれ経鼻胃管であれ経管栄養は受けません。苦痛を取る目的以外では点滴も不要です。還暦を機にそのような意思表示書を作成しました。臓器移植のドナーカードのように、終末期の栄養補給に関する意思表示書を作ってはどうでしょう。そのためには、「死ぬ」ということを真面目に考え、経管栄養や点滴の意味を知らなければなりません。いい齢をした大人が死を考えたことがないというのは、平和と繁栄がもたらした負の側面であるような気がします。
院長 笹壁弘嗣
新庄朝日第841号 平成30年7月15日(日) 掲載
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